昭和49年10月29日 朝の御理解



 御理解 第45節
 「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出る釘は打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」

 世に三宝様を踏むなと、これを注がしてあります穀物の意と。例えば私共小さい時にはご飯をこぼしますと、婆がそれを一つ一つ拾うてから、それをまた私共に食べさせてくれよりました。いわゆるお米を大事にしなければならない。食べ物を大事にしなければならないという訳です。畳の上に落ちたものやら、衛生によくないからと言うて、ぽんと捨ててしまうといった様な事をせずに、それを押し頂いて頂くという、そういう習慣を付けられておりますから。
 私は物心付く頃から穀物が道を歩いておって、落ちておったら絶対麦やら米やらね、こぼれておりますとそれを拾う。もう沢山の時にはせめて三粒だけでも拾うてから、洋服のポケットの中に入れる。ポケットの中には大豆やら小豆やらね、麦やら米やらがよく入っております。拾う事その事を言うならば何と言うでしょうかね。大事にする印にしておった様に思うです。これは今も尚続いております。
 と言う様にですね、三宝様と言えば穀物。穀物と言えば命の根でございます。ですからこの食物がなしにば、人間は生きていかれないというほどしの大事なものですから。それを大事にすると言う事はね、もう当然だと思うです。それを勿体ないという頂く姿勢こそが、信心させて頂く者の姿勢だと思いますね。だからここでは、私は必ずしも穀物という事ではなくて、大事なもの。私共がおかげを頂いていくためには、おろそかにしてはならないもの。そういう物をです大切にしていくと言う事だと思います。
 人間は身代が出来たり先生と言われる様になると、頭を下げる事を忘れる。身に徳がつく程かがんで通れとこう。信心というものは分かれば分かる程、自分自身が分かってくると言う事です。それこそ親鸞聖人様じゃないですけれども。ご晩年の九十にもなられてから言うならば、世界中での一番愚かなものは自分だという風に気付かれたと言う事ですから。分かれば分かる程自分自身が分かってくるのです信心は。もし自分自身が分かっていなくて、ただ講釈だけが出来る様になったり。信心の話が詳しゅうなっただけが、信心が出来るのじゃありません。拝み方が上手になると言う事でもありません。
 信心は愈々自分自身が分からせて貰う。昨日の御理解じゃないですけれど。屑の子の自覚というものが、愈々強うなって来ると言うのです。ですから下を見らなければおられないのです。下をいつも見にゃおられんのですから。いわばお粗末なもの例えば今までお粗末になっておったものが、お粗末にならんで済むのです。今まで足蹴にしておった様なものがです。それこそそれを一粒一粒拾うて、押し頂かなければおれない心が生まれてくるんです。いわゆる地が低うなる訳ですね。地を低うする。
 穀物例えば、粟とか稲穂なんかが、実が実れば実るほど下の方へかがんで行く様に。私共が信心の身が入れば入るほど、自分自身が分かる。自分自身が分かるからっと、こう地が低うなってくる。ですから足元の事が、ようく見えて来る様になるから。今までは迂闊に蹴り散らかし、足蹴にして通りよった様なものがです。それを押し頂き押し頂き頂いていくのですから、おかげになるのです。愈々お徳が成就していくのです。信心が分かると言う事は自分自身が、愈々分かって来ると言う事なのであります。
 昨日は二十八日の竹葉会でございました。若い嫁さん達ばっかりの会合です。本当に皆さん段々熱心に、お話も非常に高度なお話が出来られるようになりましたですね。また私もぎりぎりのお話がさせて頂けるような信心研修でした。どう言う事からだったでしょうか。福岡の秋永由紀子さんが、こういう様な発表を致しておりました。もう十四五日も前だったでしょうか。自分の女学校時代の友達をお導きしてきました。そのお友達と言うのは丁度三年前に、右の喉のここん所へ腫瘍が出来た。
 そしてそれを手術して取らせて頂いて、そん時に癌である、癌でないかが、はっきり分からなかった。このまま良くなれば、それは癌ではない。けれども三年位してから、今度は左の方に出た時には、愈々癌だと言う事であった。所が丁度三年目に出てきた。それで明日は愈々、癌の診査に行かなければならないという前の日に、由紀子さんの話を聞いて、こちらへお参りをして来る事になった。随分色々そんな具合でしたから、あらゆる仏様神様を拝んだ方らしいです。ですから金光様もやっぱり、今まで拝んできた仏様神様のような神様だと思うておった。
 言葉をそのまま借りるとです。どこどこの拝み屋さんとか。又は組織があるとしてもそれは、創価学会のようなものか。創価学会が悪いと言う訳でもないでしょうけれども。あぁいう言うならば感じの宗教じゃないだろうかと思うて、お参りをしてきたとこう言うのです。所が実際にここにお引き寄せを頂いて、このお広前に入る瞬間にです。私が丁度ここに座っておりましたが。
 それこそ身体全身にです、何かとにかく有難いものを感じたち言うのです。そしてこんな事までは、申しあげられまいと言う事まで、もう一切お届けが出来た。もう不思議でたまらないち言う。丁度そん時に前後してご主人が、銀行に勤めておられる。人間関係でこれも、お話を具体的に申しますと、大変難儀の様相がようく分かるんですけれども。とにかくにっちもさっちも行かんような状態に追い込まれておられる状態であった。だからその事をつぶさに御取次ぎを頂いてそのお願いを。
 今日もあと何時間位したら、その人と対面して、一つの対決の様な事があるんだと言うのです。それから私は御神米を下げて、それからその方の病気の事もお願いをさせて頂いて、おかげを頂きました。それが昨日お礼に参らなければならないけれども、必ずお礼には参拝させてもらうから、お願いした上にもお願いですまんけれども。こう言う事をお願いをしてくれないかという。言うならばしましょうかね。
 信心が本当に分からない。ただ拝むことだけが信心のように思うておったり、お伺いごとする事だけが信心の様に思うておる人ですから、分からんのも無理はないのですけれども。そんなら今度おかげ頂いたら、ぜひ又お礼参りをして、是から信心続けなければいけないよと言うて、昨日お初穂を託ってお礼のお届けがあって、また次のお願いがありました。話を聞かせて頂きますと帰ってからご主人に御神米を持たせた。そして金光様の先生が、胸の中にこのご主人というのは全然、無信仰の方らしいんです。
 ここに胸のポケットに入れて、お話をする時にはこの胸のポケットをさすりながら、金光様を念じながらお話をしなさいと言うて、言われた通りの事をご主人もいよいよ、ぎりぎりの時ですから、それを実行された。ところが帰ってきてから幾ら、神様仏様があるとかないとかと言うておる僕もね。こればかりは金光様のおかげじゃろうち思うたと言うほどしのおかげに展開してきたんです。相手の人がです、全然天地ほどにひっくりかえっとった事件の事が。というほどしのおかげを頂いてるんです。
 それから奥さんは翌日、愈々病院に行ったんです。所が検査も大変念入れてされた所が、癌ではない事が分かったと言うのです。だからここの辺の所を私申しました事でしたけれどもね。癌ではなかったげなと言う事だったら、有難いというものは少ないです。所が癌であったに違いはないけれども、神様のおかげでです。一夜にして癌が癌でない様なおかげを頂いたと言う事になると、大変有難い事になって来るです。大変有難いと思う心が、次のおかげです。
 また事実三年後に出たならば、間違いなし癌だから、三年後を用心しとけと言われとったんですから。だから自分はもうてっきり癌と思うておって、その前の日に例えば家の幹三郎の場合もそうでしょう。肉腫だったけれども実際開けた所が、肉腫ではなかった。世界中だから、この病気の病名を付ける病名すらが無かったんです。私はこの神様の場合は、そういうおかげが頂けれる神様だと。
 そういう例を言うなら、限りがありませんよね。ここでおかげを受けておると言う事は。相手は信心がないから、仕方がないと致しましてもね。そのご主人の事といい。その自分の間違いなし癌であったのが、実際に検査してみた所が、癌の気はなくなっておったというほどしの、まぁおかげを頂いて。そしてその方が喜ばれる言葉を、昨日由紀子さんが話をしておったんです。
 どうして合楽と言う所に初めてお参りをして、今まで思うておった新興宗教のイメージと全然違うておった。どうしてあちらの先生にお会いした時に、あぁいう感じがしただろうか。その事を私はそのまま、自分の主人にお話をしたなら。そういうとこなら僕も一つ参って見ろうかと言いよりますから、今度は夫婦揃うてお礼参りをしたいと、昨日言う事でした。だからこれは皆さんでも、これと反対の事がよくありますね。
 お参りをしてくる。心の中に一杯お届けせんならん事があった。所がお参りをしてきて、お広前に入った途端に、これが解消してしもうた。ただあれもこれもと思いよったけれども。お礼を申し上げただけで帰った。帰っておったら、おかげを受けたと言う様な、同じ事なんです。そういうものが何かがあるんです。ここのお広前には。それをどう言う様な事かというのが、昨日のお話の中心になった訳でしたけれども。結局それは私の更な心だと聞いて頂いた。日に日にが更の心だと。
 日々が有難い勿体ないというものが、新たに私の心身体全体から、溢れておる様なものがあるのだ。それがここのお広前に、そういう不思議な働きを現すのだ。その更なものと言うのがです。私はどう言う事かと言うと、今日の御理解から頂きますとです、信心させて頂いて愈々分かって来るのは自分のこと。自分の事が分かれば分かるほど、相すまん私であるという言うならば、心の状態で神様におすがりをする、お詫びをするお礼を申し上げる。そういう心がです。
いわゆる日に日に更と言われる、更なものが生まれてくる。昨日の有難さと今日の有難さは、有難さの値打ちが違うほどしの有難いというものが身について行きよる。その更なものが、おかげを呼ぶのであり、又はおかげをキャッチするのだ。何の稽古でも同じですよ。いわば慣れると言う事。マンネリになると言う事が一番つまらん。日々本気で教えに取り組んだ、日常生活をさせて頂いておるなら。必ず生まれてくるのは新なもの、新たな喜び新たな心の状態。
 より自分自身を深める所の、新たな事が分かって来ると言う事であります。信心と言う事は愈々自分が分かると言う事。だから地を低うしなければならぬ。世に三宝様を踏むなと。と言う事は命の元であり、命の根でもある穀物を大事にしなければならないですね。足で踏みつける様な事をしてはならない。そういう事をすると、それこそ目がつぶれるぞと言う。私共もそうでした。ご飯粒ば踏みつけたりお粗末にすると、足が額口に付くと言うて私の婆が言いよりました。
 足が額口につくごとなる。それを押し頂く押し頂かにゃならんから、押し頂くのではなくてです。押し頂かなければおられないという心なんです。自分自身が分かれば分かるほどです。一切のものを押し頂かなければおられない事になって来る。自分自身が分かってくる。私は信心はね愈々自分自身が分かって来る所に、焦点を置いた信心でなからなければ、それこそ先生と言われ又は身代が少し出来てきたりすると。
 もう下を向く事を忘れます。下を向く事を忘れるから足元の所に、大事なおかげを頂く元があっても、それを蹴散らかす様な結果になるのです。おかげの元になる様なものが足元にある。その足元のものを押し頂くような心になるから、おかげは愈々実ってくる。お徳は愈々付いて来る。ここで皆さんがです。日々例えば更なものを感じて下さるならばです。それは私の日々の信心の有難いというものが、昨日の有難さと今日の有難さは違った有難さが成長しておる姿だと思うて頂きたい。
 昨日どなたでしたか関さんでしたか。前の晩に前の夜の御祈念から見えて、泊まっておられておられた。この頃はバスの都合で朝参りが出来なさらん。久し振りで朝の御祈念を頂いて。親先生のお出ましから御祈念を頂いて、生な御理解を頂いて。とてもとてもテープなんかで頂ける味わいじゃない味わいを、今日は味あわせて頂いたというお届けがありましたが。それは生に私の更なものが出ておるからです。これは私だけの事じゃない。皆さんの場合でもです。
 日に日に更な心を頂かせて頂く。それはそれだけあなたは信心が分かりなさった事になります。分かれば分かるほど、いわば地を低うしなければおられません。足元を見つめなければおられません。その足元にです。おかげを頂く元がある。または、おかげを落とす元がある。そこでおかげを頂く、その元を押し頂く心の状態になるから、それこそ信心が出来れば出来るほど、身に徳がつけば付くほどに、頭は愈々低うなってくるおかげが頂かれるのです。高芝さんの娘婿さんが、お商売を始められる時に。
 その称号をどういう風に付けたが良いかと言う事であった。私は稲の心稲心株式会社稲心と言う事を頂いた。稲の心株式会社稲心。そしてその御理解を私は聞いて頂いたのが、今申しました様な事を聞いて頂いた。稲の心になる事だよ何時も。幾ら調子が良いからと言うて、調子に乗り過ぎなさんなよ。稲はいわば実れば実るほど、頭(こうべ)を垂れていく。所謂稲の心を忘れるなよ。稲の心を忘れさえしなきゃ繁盛のおかげになるよという意味の御理解を伝えせて頂いた事でした。皆さんの場合でも同じ事です。
 どうぞ一つ愈々三宝様を踏む様な事になるのは足元を見らないから、三宝様を踏む様な結果になるのです。頭が低うさえなっていきゃ踏む段じゃない、それを押し頂いて通る様になります。だから人からも見上げられるおかげにもなって来るし、神様のお引き立てもまた格別。愈々神様のご信用も身に付いて、徳が愈々身に付いて来る様なおかげになるのです。例えばお参りでもです。心が弾んでおる。生き生きとして。御祈念が始まってどもおると、かきい出だしたいごたる心が生まれてくる。
 そういう時ならばです。愈々信心が更な信心として成長しておる時です。こん早うから眠かつに、これから寒くもなりますとです。この寒かつに何時まで参らんなんじゃろうかと言うごたる心の状態の時には、信心は停滞しておる時です。しるしさを感じる時には。しるしいでしょう。けれども有難いという様な時なら、必ず信心が進んでおる時です。同時に、愈々自分自身を分からせて貰うてです。自分自身が分かると言う事は、自分が立派な者と分かるのじゃないですよ。自分ほどつまらん者は無い。
 それこそ親鸞聖人様じゃないけれども、九十になられてから、それこそ世界中で自分ほどつまらない、自分のような悪人はなかろうとまで言われたんです。それが自分の心の中の、そういう汚いものやら、悪やらが見えて来る様になるのです。それが信心です。それが今日聞いて頂いた更な心と言うのは、そう言う事なんです。一つ更な信心をさせて頂けと言う、私はこの四十五節は御理解だと思いますね。
   どうぞ。